八月に思うこと
迦穏亭の床の下には昭和20年が眠っています
なるべく人生の先輩から昔の話を聴かせてもらえるようにしていて…
富山が空襲で焼けた日のこと
私の88歳の人生の先輩は「福野から富山に爆弾が雨の様に落ちて行くのも、真っ赤に燃えているのも見えた…福野だよ」
先日89歳のお誕生日を迎えたきれいな白髪の女性は「人の声が新湊まで聴こえて来て…、耳を塞いでも…、ずっと聴こえて…それが嫌で嫌で…。」
富山の人なら、これがどれだけ信じられないことかわかるはず…
先日ののみの市、看板犬のん🐕を見ながら「自分は昭和9年生まれ。昔、食べる物が無くて犬や猫をよく食べた。だから犬も猫も飼う気になれない。犬は上手かった。猫は茹でると紫色の灰汁が出るんだ…」
昔、小学校の夏休みの宿題で「お年寄りに戦争の時の話を聞いてくる」と言うのがあった。
祖母からは「うちはよその比べたら大したことなかった」と言い、一切話してくれなかったから、兵役の話などを聞き取って来る同級生が羨ましかった。
私の祖母は、生まれは神通本町。伴侶である祖父はシベリアの兵役から復員後、心身症を患い戦後それが素で無くなっている。
何もないはずがなかった。喋りたくなかったと言うことに気がついたのは、随分大人になってからだ。
迦穏亭の建物は、昭和20年に建ち上がっている。
紛れもなく昭和20年8月2日には焼け野原になった場所に、4ヶ月の間に建物が建ったことが住んでいながら信じられない。
近所の御意見番にこの建物のことを聞いた。「ここのお父さんは当時県警本部の偉いさん。それでなければ、あの時にこれだけしっかりした建物建てれん」
畳をはぐって床板の間を覗くと土間
迦穏亭の土間は紛れもなく戦後数ヶ月の記憶が眠っている
そこで着物屋を営んでいることにも、言語化しきれない意味や使命みたいなものを感じている。
日本人が長い時間を掛けて、伝わることを諦めてきた大切なことをもう一度伝えていける場所でありたい